横井先生の思い出【洋画家・横井弘三】
- インターネット担当
- 2023年6月8日
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本日は小林一郎会長のブログより、再録します。
「日本のアンリ・ルソー」と呼ばれた洋画家・横井弘三の、知られざるお話です。

横井先生の思い出
小林一郎
洋画家横井弘三(1889~1965)は飯田市に生まれ、東京で活動した後、戦後は長野市で晩年を過ごしました。近年、再評価の動きが出ています。
私は長野市南県町で生まれ育ちました。そしてその家に間借りしていたのが、横井弘三でした。信濃毎日新聞社の斜め前にあった私の家の建物は、戦前は旅館だったそうで、「裾花館」という名前があり、多くの人が間借りしていました。横井弘三は玄関のすぐ左の部屋に住んでいました。私たち家族は奥の離れに住んでいました。横井弘三が晩年に住んだ家の大家が小林計一郎であったことは、ほとんど知られていません。
私たちは「横井先生」と呼んでいました。先生は子供たちに絵を教えていました。大人で先生に絵を習っていた人もいました。最初は入口の1間だけでしたが、後には続きのもう1間も使うようになりました。
私も少しばかり先生に絵を習ったことがありました。ある時は安茂里にアンズの花の写生に出かけました。私には難しくて、アンズの花はあきらめて、枯れ枝のようなものをかきました。先生はやさしくそれを受け入れてくださいました。マジックインキで、画用紙に似顔絵をかいてくださったこともありました。私は正直、似ていないと思いました。
先生は超俗的なところがありました。親の話によると、下着はあえて裏返して着ているとのことでした。オナラをするにも、トイレまで行ってするとのことでした。
ある時、放浪の画家山下清が先生を訪ねてきました。当時山下はすでに有名でしたから、横井先生の偉さをあらためて知った思いでした。
父は必ずしも先生の絵を評価していなかったように思います。父の横井先生に対する評価は、いつも「粗製濫造」でした。それほど先生は多作だったのです。






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