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横井先生の思い出【洋画家・横井弘三】

本日は小林一郎会長のブログより、再録します。

「日本のアンリ・ルソー」と呼ばれた洋画家・横井弘三の、知られざるお話です。


横井弘三による宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」挿絵
宮沢賢治 著 横井弘三 絵『グスコーブドリの伝記 : 童話』,羽田書店,昭和16(1941年). 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1720627/1/15 (参照 2023-06-08)より、15ページ目「北守将軍と三人兄弟の医者」の挿絵。

横井先生の思い出

小林一郎


洋画家横井弘三(1889~1965)は飯田市に生まれ、東京で活動した後、戦後は長野市で晩年を過ごしました。近年、再評価の動きが出ています。


 私は長野市南県町で生まれ育ちました。そしてその家に間借りしていたのが、横井弘三でした。信濃毎日新聞社の斜め前にあった私の家の建物は、戦前は旅館だったそうで、「裾花館」という名前があり、多くの人が間借りしていました。横井弘三は玄関のすぐ左の部屋に住んでいました。私たち家族は奥の離れに住んでいました。横井弘三が晩年に住んだ家の大家が小林計一郎であったことは、ほとんど知られていません。


 私たちは「横井先生」と呼んでいました。先生は子供たちに絵を教えていました。大人で先生に絵を習っていた人もいました。最初は入口の1間だけでしたが、後には続きのもう1間も使うようになりました。


 私も少しばかり先生に絵を習ったことがありました。ある時は安茂里にアンズの花の写生に出かけました。私には難しくて、アンズの花はあきらめて、枯れ枝のようなものをかきました。先生はやさしくそれを受け入れてくださいました。マジックインキで、画用紙に似顔絵をかいてくださったこともありました。私は正直、似ていないと思いました。


 先生は超俗的なところがありました。親の話によると、下着はあえて裏返して着ているとのことでした。オナラをするにも、トイレまで行ってするとのことでした。


 ある時、放浪の画家山下清が先生を訪ねてきました。当時山下はすでに有名でしたから、横井先生の偉さをあらためて知った思いでした。


 父は必ずしも先生の絵を評価していなかったように思います。父の横井先生に対する評価は、いつも「粗製濫造」でした。それほど先生は多作だったのです。

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