連載「疎開」⑥ 障がい者支援に一生を捧げた小杉長平
- インターネット担当
- 7月11日
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今年は戦後80年です。本会の小林一郎会長は、数年前から調査してきた、長野県内に疎開した文化人を冊子にまとめて発行します。
冊子の発行は7月末ですが、長野市民新聞に、6/28(土)から、「疎開 長野に暮らした著名人」の連載が始まりました。長野市とその近郊への疎開者連載は、7月半ばまで続く予定です。
7/10(木)連載第6回は、障がい者支援に一生を捧げた小杉長平(1909~83)です。
豊島区高田第3国民学校で補助学級(特別支援学級)を担当していた小杉は、昭和19年(1944)8月に、普通の教員として、一般の学童を連れて山ノ内町渋温泉に疎開しました。
その後、昭和20年4月になると、高田第三国民学校は、朝陽村(長野市朝陽地区)など、上水内郡内の4村に分かれて再疎開をしました。
朝陽村の宿泊は、長命寺、来迎寺、西教寺の3寺でした。小杉は来迎寺で、18人の生活指導を担当。授業は、朝陽国民学校(朝陽小学校)で行いました。
小林会長は、小杉の対談記事から、昭和20年8月13日の長野空襲で、朝陽小学校が被弾したことを語っていると紹介しています。
記事で小林会長は「流れ弾だったかもしれない」としながらも「貴重な証言です」と書いています。







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